この事を理解してもらう為に建築

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このような変化の理由は想像するしかないが、この共卓での食事形式の出現は少なくとも欧米の食事形式の影響を受けたものであることは明らかであろう。

団欒の中心は主人から主婦へところで、この膳から共卓への食事形式の変化は、単に共同のテーブルに座るという行為の変化だけではなく、様々な変化を同時に誘発させることになる。たとえば、共卓故に家族皆が揃うことが求められた。また、皆が揃うため、主人や長男だけを特別扱いすることが難しくなり、また、料理が大皿に盛られることもあり、それを皆で分けて食べることが求められたのである。それは、一種の平等化をもたらしたし、あたかも円居のような場面が増えたのである。そのこともあって、食事という行為は寡黙の美徳の場から一転して会話の場へと移行したのである先に見た『食道楽』と同じ一九0三年に出版された社会運動家として知られる堺利彦の『家庭の新風味』では、食事の様子を次のように述べている1870-1933食事の時は、即ち家族会が開けたのである。

戦前期のわが国で出版された主要雑誌である『明六雑誌1874-75-明治七年八年、『中央公論』1887-_明治二0年現在、そして『太陽』1895-192s-明治二八年昭和三年といった月刊誌を取り上げ、それらの記事内容から当時イメージされていた家族像を探った興味深い書物だこれによれば、一八八七明治1100年以降、旧来の家族道徳を批判し夫婦や親子間の愛情からなる家庭を理想の場とする新しい家族倫理を展開する記事が増え、一八九0年代(明治二0年代後半から三0年代)頃から女性を対象とした婦人·家庭雑誌が創刊され始めると、総合雑誌では家庭を論じる記事が次第に減少していくというのである。そして、婦人·家庭雑誌では一八九0年代(明治二0年代後半)以降、主婦の任務を美化し強調する良妻賢母論に傾倒する記事が増え、一八九九(明治三二)年の高等女学校令により良妻賢母論の徹底化が図られたという。
この分析結果と照らし合わせると、『家庭の快楽』は、その出版時期が良妻賢母論の強化が図られた時期と重なり、また、その出版目的もまさしく新家庭の目標を団欒とし、それを支える黒子としての主婦の役割の重要性を述べようとしたものと推測できるのである。
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『吾輩ハ猫デアル』の挿画-食事の形式が大きく変わるところで、『家庭の快楽』に見られる団欒に注目すると、団欒として朝食と夕食時期も挙げられている。
土曜の主人の居間での団欒は最も大切な団欒の時間であったが、毎日の朝食時と夕食時も団欒の時間であったのである。この恒常的に行なわれる食事時の団欒こそ主婦の役割をより重要なものにしたものといえる。
この食事時の団欒と先の主人の居間での団欒の共通性は、当たり前であるが家族が揃うことである。
とすれば、やはり、団欒は家族が集まる行為といえる。ただ、土曜の団欒は父親が家族を招集したものであるのに対し、この食事時の団欒は母親が招集したものといえる。また、前者は人為的な集まりであるのに対し、後者は自然発生的な集まりといえる。余談だが、こう考えると、団欒の喪失は、父親、そして次に母親の家族を集める力なり役割の衰退を意味するとも言えるかもしれない。
さて、食事の場に家族が揃うと述べたが、明治期の食事風景はどのようなものであったのであろうか。
よく知られているように、当時は各自、銘々膳を用いて食べていた。それゆえ、主人や長男だけが添え物が1点多いといったことが可能であったのである。

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また、そのような日常的な食事時は宴会とは異なり、黙して語らないのが美徳とされていた。
しかし、そうした様子が次第に変わり始めることになる。
な夏目漱石1867-1916のデビュー作『吾輩ハ猫デアル』で食事をしている風景が描かれている(図21)。
一九0五(明治三八)年に発表された有名の挿画には、子どもたちが丸い座卓を囲ん
この風景に代表されるように、実はわが国では食事の形式は一九00年頃明治三0年代を境に大きく変わることになる。すなわち、伝統的な銘々膳を用いた食事形式から共用の座式の食卓である座卓通称ちゃぶ台と呼ばれるもので食事を行なう形式へと変化していくことになる。
たとえば、一九0三(明治三六)年にベストセラーとなった村井弦斎の料理本『食道楽』では、「今では大概な家は食卓が置いてある、畳の上の平膳で物を食べずに食卓の上で食べる様になったのは一般の進歩に違ひ無い」とあり、近年多くの家庭では共同で食事を行なう食卓を持つようになったことを記している。
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このような変化の理由は想像するしかないが、この共卓での食事形式の出現は少なくとも欧米の食事形式の影響を受けたものであることは明らかであろう。

団欒の中心は主人から主婦へところで、この膳から共卓への食事形式の変化は、単に共同のテーブルに座るという行為の変化だけではなく、様々な変化を同時に誘発させることになる。たとえば、共卓故に家族皆が揃うことが求められた。また、皆が揃うため、主人や長男だけを特別扱いすることが難しくなり、また、料理が大皿に盛られることもあり、それを皆で分けて食べることが求められたのである。それは、一種の平等化をもたらしたし、あたかも円居のような場面が増えたのである。そのこともあって、食事という行為は寡黙の美徳の場から一転して会話の場へと移行したのである先に見た『食道楽』と同じ一九0三年に出版された社会運動家として知られる堺利彦の『家庭の新風味』では、食事の様子を次のように述べている1870-1933食事の時は、即ち家族会が開けたのである。

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謂はゆる一家団欒の景色は最も多く食事の時にある。
食事は必ず同時に同一食卓においてせねばならぬ飲む、此点から考へれば、一家者が一つの食卓を囲んで相並び、相向って、笑ひ、是が若し無いならば、家庭の和(『家庭の新風味』一九0三年)ここでは食事の場が一家団欒の場であること、また、その際、会話が重要な役割を担っていたことがはっきりと述べられている。また、こうした団欒風景は、団欒の中心が主人であっても、黒子としての主婦の姿をはっきりと家族に認識させることになり、それは相対的に団欒の中心が主人から主婦へと移行し始めることの兆候であったと考えられるのであるいずれにしても、一九00明治三三年年頃は父親を中心とする家族団欒の風景が確立され、また同時に、主婦を中心とする団欒風景の誕生を促す食事風景の変容が起こった時期であった。このような生活の内的変化をエネルギーとして、住まいは徐々にではあるが大きく変容し始めることになる
居間と客間を取り替えるでは、こうした団欒の場である居間や茶の間を間取りの中で重視する動きはどのように始まったのであろうか。既に触れたように、わが国の住まいの間取りの原理は、接客の場を第一に優先にして創り出されたもので、南側に客間という客をもてなす場が配されていた。そのため、逆に、家族の生活の場は北側のあまり住環境のよくないところに置かれていた。団欒の追求はこうした部屋の配置の仕方の批判から始まった。
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居間と客間の位置を問題にした早い例の一つが建築家·横河民輔1864-1945の主張であった。この横河の主張を取り上げたのが、時事新報社記者·土屋元作で、一八九八(明治三一)年八月から翌九月まで『時事新報』で連載した家屋改良談の中で紹介した。すなわち、横河の主張とは、これまでの住まいを時代に対応するものとするために、家族の使用する居間と接客の場である客間の間取りにおける部屋の位置を取り替えることを主張したのであるちなみに、横河は一八九0(明治二三)年に東京帝国大学を卒業し、現存する日本橋の三越デパートなどを手掛けた戦前期の代表的建築会社である横河工務所を興した人物である。