そこから大幅に変更するのは難しくなりが家族

家ができることが保証

家族が誰もいない部屋こうして、住まいの中でその位置を確実にしてきた居間であったが、そこには家族の中心として力を振るった明治期の父親とは異なり、母親が陣取り、やがて、テレビがそれに取って代わった。また、この頃から、居間は名称もリビングと称された。そして、テレビのある風景が家族団欒の風景として定着するほど、テレビは居間の最も重要なものとなった。また、リビングの定着の中で、あらたにモダンリビングと呼ばれる接客をも意識し、また、デザインの質の高い居間を住宅の中心に据える住まいも増えた。
それは、単にリビングをつくるのではなく、アメリカ住宅の質をも受け継ごうとした試みでもありアメリカ住宅のリビングの象徴でもあった暖炉を設ける例もしばしば見られ、上流層の住まいとして静かに定着していった(図27)。

一方、テレビを中心とした居間は、経済的な豊かさの中でさらに変化することになる。
テレビが廉価となりパーソナルなものとなり始めると、家族をつなぎとめる力を急速に失いはじめる。
それは、常にいた母親がパートや仕事で居間を留守にしはじめた時期とも重なる。
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子どもたちは、テレビを個室に移動し、居場所も個室へと移しはじめた。
もはや、テレビだけの誰もいない居間はバラバラの家族を集める力を持ちえなくなってしまったのである。それとともに個室の居間化がはじまったといえよう。

居間は必要かこうした居間の虚構化の動きの中で、建築家·東孝光は都市型住宅として塔状住宅(一九六七和四二>年)を建てた。これは、わずか数坪の土地に建てた地下1階、地上五階のコンクリートの住まいである。このところ、極小住宅を建築家に依頼することがブームとなっているが、こうした極小住宅の走りといえるかもしれない。
この住まいの居間は、食テーブルを囲んだ小さな空間だが、上部が吹き抜けとなっているため圧迫感のない居心地のよい場となっている。


住宅と都市の金持ちの住む高級住宅に住んでい
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近代になってからのことだ家

床の小さな段差の解消法しかし、友人が押し寄せた時など、狭さはどうしようもない。だが、東によれば、広い場所がほしければ、おいしいコーヒーも飲める近くの喫茶店やレストランに行けばいいし、緑がほしければ公園に行けばいいという。
それは、居間は大切だが、住まいになければならないものではなく、都市の中に存在する多様な施設を利用することでその代用の場が得られると述べているのだ。そこには、家族専用の居間ではない新しい居間のあり方をめざす姿勢が見て取れるのであり、それは都市との共存を探る新しい生活像の提案でもあったのである一方、居間の虚構化を見越したように、建築家·黒沢隆は一九六0年代から居間のない個室だけの住ま11個室群住居1の開発に向かっている。黒沢によれば、近代住居の存在の条件こそ、単婚家族「私生活の場としての住居」そして夫婦の一体性であったが、共働き世帯の一般化によって「夫婦の一体性が失われ、また、産業構造の変化によって私生活の場」に再び仕事の場が持ち込まれ始め、社会-家庭-個人という段階構成が社会-個人という関係に転じてしまい、家庭は消滅したという『個室群住居』住まいの図書館出版局、一九九七年
賃貸契約も同時に結ぶ必要があ建築コストが非常にかかる上要は、夫が働き、妻が家を管理する·住まいは団欒と休息の場である.住人は夫婦とその子どもという近代住居の前提が、女性の社会進出や住まいと仕事場の一体化といった労働の質的変化により崩壊しつつあったというのであるその根拠のひとつが一九六四(昭和三九)年の女性の就業率およそ五0パーセントという高さであった。黒沢によれば、日本中の夫婦のうち既に四分の一が共稼ぎであり、その割合は年々増加の傾向にあるという。いわば、近代住居の住人の家族が質菂に変わり、社会とのクッションとなっていた家族の役割が消え、各個人が直接社会と接するようになる。こうした変化に対応する新しい住まいが、個室群住居というわけである。

家づくりで大切なことは建設組合をつく

黒沢の最初の個室群住居を見ると、一見すると居間のような食テーブルが置かれた共用の場があるしかしその名称はホールと記されているのだ(図28)。そして、個人の部屋は文字通り個室。そこには、居間ではなく個室こそ主役という姿が描かれている。

はや一九八0年代後半に、DINKSという言葉が流行った.DOUBLEINCOMENOKIDSの略語であるそれは、アメリカのインテリ夫婦を示す言葉として日本にも取り入れられた。このDINKS、すなわち、子どものいない共働き夫婦の存在をイメージすれば、ひょっとしたら、結婚してもそれぞれ自らの書斎を兼ねる個室で過ごす時間が必要だろうと思うし、個室群住居のような住まい形式もありえるとも思う。
しかし、てくる。
同時に、やはり一緒にいることの重要性は否定できなぃのではないのかと素朴な疑問も湧い
団欒は自然に存在するものではない明治以降の住まいが向かった方向の一つが居間を中心とした家族団欒の場への移行でもあったため、ちょっと力んで述べてきた。
段ボール箱にも


工務店の人にお願いするのも一つの手段
工務店の人にお願いするのも一つの手段

暮らしの準備段階にあ

この辺で居間の見学を終えて、隣の台所に移ろうと思うが、接客本位から家族本位の動きのなかで、わが国の伝統的な間取りの原理が徐々にひび割れを起こし、新たな原理を求めて変化してきたことはおわかりいただけたように思う。
ともあれ、改めて言おう。団欒はいつでも自然に存在するものではない。
何も生まれない。家族がお互いに、努力して創り出すものなのだ。
団欒の場を設けるだけでは子どもが幼ければ、親がきちんとそうした行為の意味を教えるべきであり、大人であれば、それ相応の努力をお互いにすべきであろう。その努力とは、基本的には極めてシンプルなことで、お互いが直接会って話ができるそうした時間をつくることである。

家になるかどうか建売