それがわかりません間取

家屋がその方法で造られてい

こう考えてくると、もてなす行為は非日常の行為ではあるが、生活の中できわめて重要な意味を持つているように思える。レヴィ·ストロースの指摘は、このもてなす行為は人類が永い歴史の中でつくり出した独自の生活文化であることを示しているともいえるだろう。
ところで、そうした行為を行なうための部屋を客間応接室·座敷と呼び、屋、座敷は伝統的な床座の部屋を指す。そのため、応接室といえば応接セット四点セットを、座敷といえば対語のように床の間を思い浮かべる。
応接室は椅子座の部と呼ばれるソファのもっとも、床の間といっても、私の勤め先のように住居系のデザインの勉強をめざしている学生でさえ、その存在を知らないものが多くなった。知っていてもテレビの置き場と勘違いしている学生もいるくらいだ。その意味では、床の間を備えた伝統的な座敷はもはや忘れ去られようとしているようにも思える。そこから大幅に変更するのは難しくなりが家族それと同時に、残念だが、伝統的な和室の良さも失われようとしているように思えてならない。

る時このるいらない部屋?
りんせいひつ座敷という言葉に、重々しい響き、凜とした静謐さ、ただならぬ緊張感、そんなことを連想してしまうのは、ある程度の年齢を重ねた伝統や慣習を多少なりとも実体験している者だけかもしれない。それほど、座敷のイメージは大きく変わった。それは、座敷に象徴される接客行為が、わが国の住宅の近代化の中で、軽視され、そして、否定されてきたからに他ならない。その動きは、既に見た居間重視の動きと表裏一体の関係にあったのだ。居間のところでも触れたが、接客を重視した接客本位から家族の居間を重視しようとした家族本位の主張の中で、座敷は様々な批判を浴びたのである。
座敷の変化を追いかける前に、明治期から大正期にかけての座敷がどう捉えられていたのかを見ておこう。最初に紹介するのはわが国最初期の建築書のひとつとして知られる一九0二(明治三五)年に刊行された『通俗家屋改良建築法』の客間の記述である。

  • マンションが建ってい駅前
  • 工事期間中を過ごせた方がいい
  • 部屋の戸は開き戸だ

住まいの女性の方

客間は来客を請じ応接し、饗宴等のために用ふる一家の表座敷なり、故に家屋中最も尊重なる構造を要し、且つ庭園に望たる好位置に置くを以て我国の慣例とす、然るに近来行わるる説は不時の来客を待客間のために一家中の最も好位置を塞ぎ、日常起居する家族等の居間は、好位置を得ざることあり、故に客間は北側に移し、来客に対する相当の設備をなせは、大いに便利ありとす次の間は客間、其他の主要なる座敷に続きたる間室なり、此種の間室は成べく併列せしむるを利益なりとす、平常は襖を以て境界とし、若し多人数集合せる饗宴等の席に使用せんと欲せば境界の襖を徹し、広き一室を得る便利あり……(井上繁次郎『通俗家屋改良建築法』一九0一一年)
これから、客間は家屋中最も重要な部屋であり庭との関係から南庭に面して設けられていたこと、の間があり大勢の来客時に対応できるよう準備されていたこと、そうしたことが慣例であったこと、えて、このような中で居間を重視する新たな考え方が現われはじめていたことがうかがえる次加
その家の中心となるところまた、一九一五(大正四)年の『家庭』では客間·応接室について、次のように記されている。
資産価値の低下を抑えるため
客室は其の家の中心となる処であります。何処でも其の家の最も広い室を客間にあてて装飾も亦この室を中心として居ります。客室は出来るだけ庭園を見晴す処でなければなりませぬ。客室は玄関から近くて他の家族の居室を通らないで行き得る処が宜しいのです。
客室には一定の式がありますから、装飾はそれによって取捨斟酌するが宜しう御座います。
客用厠は成るべく客室に遠からぬ処で、そして一寸離れてあれば猶宜しいのであります。
(下田歌子『家庭』一九一五年)この『家庭』の著者は実践女学校を創設した下田歌子1854-1936。明治期の女子教育を確立した人物で、欧米留学も経験している。このような欧米文化に精通していた下田でさえも、先の井上同様に客間は家の中心であるとし、また、客間ばかりではなく客専用の便所の必要性も説き、加えて、客間には一定の形式があることも述べているでは、この客間の形式とは、どのようなものか。家さんもっとローコスト

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このような座敷の装飾に関しては当時、『家庭百科全第14六編室内装飾法』近藤正一、一九一0年や『図解日本座敷の飾り方』(杉本文太郎、一九一二年)などといった解説書も数多く出版されており、そうした知識がまだまだ十分必要とされていたことがわかるここでは、そうした必要最低限の内容を要約している家事教科書として、一九一六(大正五)年に刊行され、以来一九二八(昭和三)年までに十三版を数えた奈良女子高等師範学校現奈良女子大学教授石沢吉磨の『家事新教科書』を参考にして見てみると、「和室では床の間·床脇·附書院を設け、洋室ではファイヤープレース·マントルピースを設ける」とし、床の間には掛け軸とともに生け花など、床脇には書物·巻物·文箱·香炉など、附書院には硯箱を備えることが必要と述べている(図37)。また同様に洋室にあってはファイヤープレースを正面にして対称にテーブルと椅子を配置し、マントルピースには置物や時計などを飾ることなどが記されている。

客間は、家の中心であり、もっとも重要な部屋として南面の住環境のよいところに設けられていたのであった。それは、武家社会が生み出した書院造の伝統であり、明治期においても、多くの住宅はこうした江戸期の武士の生み出した住宅形式を受け継いでいた。家さんもっとローコスト

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接客が重要視されなくなる一方、先の引用文からも明らかなように、そうした伝統に対して新しい住まいとして、家族の生活の場を重視しようとする動きが一九00年前後から活発化していくことになる。その結果、一九一0年代に活発に展開された生活改善運動の主役を担った生活改善同盟会が高らかに宣言した住宅改善の方針にもはっきりとそのような新しい考えが盛り込まれたのであった。すなわち、六つの方針のうちのひとつとして「住宅の間取設備は在来の接客本位を家族本位に改めること」と謳われたのである。
ここに明らかなように、一九一0年代の住宅の主要テーマは、接客本位から家族本位へであった。
そして、ここでいう家族本位は、住まいは家族のものであり、常住している家族のための住まいを指していた。その意味では、単に居間を重視するだけではなく、生活の場の重視という広い意味を含んでいたことがわかる
忘れられるもてなす場ところで、このように批判された客間であるが、その批判を整理すれば、客間という部屋そのものへの批判ではないことが判る。
あくまでも過剰なまでの接客性への反発であり批判であった。
座敷という部屋は、部屋として見れば、床の間があり、その脇には違い棚、もう少し質の高い部屋になれば床の間の縁側寄りに附け書院が設けられた(図38)。そして、部屋の外側には縁側が回り、建具は障子が用いられた。それらの意匠は、実に手の込んだもので、柱や棚板や押板は材料が吟味されるなど施主の好みや材料の知識、さらにはこだわりなどがそれらのひとつひとつに感じられることになる。また、縁側の先には、南庭が設けられた。


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