マンション自体が乗合バスでもあ

家賃の一部に充てることも出来

寝室のところでも用いた生活改善同盟会の『住宅家具の改善』一九二四年を見ると、これからの住宅の姿のひとつとして「台所、浴室及び便所は互に接近するが利益である」とし、「此の三室は一様に水に縁故が深い室でありますから成る可く接近して設けるのが経済的であります」とあり、また、浴室や便所を二階に設ける場合は、1階の水まわり部分の上のほうがよいと記されている。
今日では、様々な技術革新のおかげで、水まわりの被害はある程度防げるようになったし、また、諸設備もそんなに高価ではなくなったこともあって、室内にバラバラに水まわり部分がジワジワと進出してきた。今でも普及はしていないが、欧米の住まいのように寝室の隣にバスとトイレを設けることだって十分できるのだ。
ただ、なかなか日本ではバスとトイレが寝室に付設するものとしての意識は低いし、そうした間取りは少ないそもそも、バスとトイレを一緒の部屋に設けることにはかなりの抵抗がある。ワンルームマンションやホテルなどには多いが、家族向けのマンションや戸建住宅にはほとんど採用されてはいない。
おそらく、お風呂に独特の意味を見出しているからだ。

男女混浴に寛容だった大阪別荘地などの高台に建つセカンドハウスでは、時々全面ガラス張りのお風呂を見ることがある。
自慢の人のためのつくりではなく、お風呂に入りながらパノラマのように広がる景色を楽しむための工夫である。また、都心に建つマンションのお風呂でも、隣に坪庭が設けられ、お風呂から緑を観賞できるという心遣いが感じられるものがあるこうした工夫が施されたお風呂を見ていると、お風呂は単に体の汚れや臭いを取り除くためのものではなく、一種のリラクゼーション施設なのでは、と改めて感じてしまう。
マンション自体が乗合バスでもあ

建設会社の経費程度
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家づくりになるとは限らないのまた専門
家づくりになるとは限らないのまた専門


筋交いのみで耐力壁を構成してい

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そもそもわが国のお風呂の歴史を振り返れば、現在のお湯に入る形式(湯浴)とともにサウナ風呂のような蒸気にあたるもの蒸気浴の二つの系譜があった。蒸気風呂の存在はほとんど忘れ去られているが、大徳寺や妙心寺などの禅寺の浴室は蒸気風呂であった。
大場修によれば、風呂という言葉はもともと蒸気浴のことで、浴槽のお湯に入る形式のものは湯屋とか湯殿と称していたという『風呂のはなし』鹿島出版会、一九九五年。その意味では、現在のわれわれの言葉遣いは間違っていることになる。このように混同したのは、江戸時代から明治にかけて存在していた銭湯が、柘榴風呂形式をとっていたからであろう。この柘榴風呂形式とは、浴槽の出入り口が低くて屈んで入るようになっているもので、浴室は湯浴と蒸気浴の両方を兼ねたものであり低い出入り口は蒸気を外に逃がさないための工夫であった。こうした湯浴と蒸気浴が混在する過程で名称としては風呂が残ったようなのだ。
ざくろ名称の問題はさておいて、ちょっと注目したいのが銭湯のもうひとつの顔のことである。江戸時代後期には、江戸の人々は毎日湯に入るのが習慣で、また、内風呂は武家住宅だけで、商家には内風呂を備えたものは少なく、大半の人々が銭湯に通ったという。その銭湯は、当然ながらお湯に浸かってサッパリするという場とともに湯上がりに男風呂の二階には座敷があって、飲んだり食べたり、碁や将棋を指したりという娯楽の場でもあった図58

また、銭湯で興味深いのは、江戸は古くから男女別々に入っていたが、大阪では男女混浴で、寛政の改革一七八七九三年で男女別ができたが完全な分離ではなかったという。男女の混浴には、大阪のほうが寛容であったようで、そうした伝統は今でも性風俗の独特のアイデアに生きているようにも思える。
話が横道に逸れてしまったが、ここでいいたいのはお風呂が、単に体を洗うためだけの場ではなく遊びの要素を兼ね備えていたということ。こうした意識は、古代ローマ時代の大浴場文化に似ているかもしれない。ローマ時代の大浴場は体育館や図書館などを併設した一大娯楽センターであったからである西欧ではお風呂の娯楽性という文化がローマで途絶えたが、日本は、明治以降も娯楽性を兼ね備えたお風呂文化は続いてきたように思う。そうした意識が、お風呂は寝室に併設するものという西欧的な感党を拒否してきたし、お風呂をできるだけ楽しもうとする行為のみなもとになっているように思える。

お風呂に入るのは命がけだった既に触れたように、浴室お風呂はトイレと同様に住まいの隅に配されるのが一般的であった。その理由は、お湯を沸かすために火を扱わざるを得なかったためである。

不動産業者は喜んで受

住宅ローンも含めた毎月の支出を引いた時それでも、明治以降の住まいの間取りを見ていくと、浴室のお湯を沸かす時間帯が調理の時間と重なるために、台所仕事の合間に浴室の火を扱えるようにと浴室の位置が次第に台所へと接近し始め、ついには隣接するように変化していくことになる。
私はこの現象を台所と浴室のハネムーン現象と称しているが、こうした熱い関係が再び崩れるのは戦後になって湯を沸かすための設備が充実し、人がその場にいなくとも沸かせるようになってからのことである。
さて、江戸から明治期にかけての内風呂といえば、想起するのが通称五右衛門風呂と呼ばれる長州風呂これは、大きな鉄釜に水を入れてそれを下から沸かす形式のもので、まさに、中にいる人間をゆでるものだ。内風呂としては、一九二0年代までもっとも普及していたもので、たとえば一九二0大正九年刊行の『日本住宅百図』遠藤於菟著には長州風呂を「一般家庭--適当11シテ衛生的、経済的」として詳細図を載せている。ちなみに、この間取り集には10坪から五四坪までの木造住宅が掲載されており、浴室は110坪以上のものにほぼ設けられていることがわかる図59

再び、長州風呂に目を向ければ、体を沈める大きな釜と上がり湯の小さな釜の二つがセットになっているのが一般的である。釜は直接火で焼かれているため、釜に触ると熱くて火傷しそうでかなわない。
いわば、お風呂に入るのも命がけだったのだ。そのため、改良風呂として、木製の風呂の中に鉄製の竪釜を取り付けた鉄砲風呂と呼ばれるものが普及した。
やけどしかし、これも鉄釜が風呂の中にあるため、ちょっと危険。
部屋の温度は高く不動産業者は喜んで受寝室のところでも用いた生活改善同盟会の『住宅家具の改善』一九二四年を見ると、これからの住宅の姿のひとつとして「台所、浴室及び便所は互に接近するが利益である」とし、「此の三室は一様に水に縁故が深い室でありますから成る可く接近して設けるのが経済的であります」とあり、また、浴室や便所を二階に設ける場合は、1階の水まわり部分の上のほうがよいと記されている。
今日では、様々な技術革新のおかげで、水まわりの被害はある程度防げるようになったし、また、諸設備もそんなに高価ではなくなったこともあって、室内にバラバラに水まわり部分がジワジワと進出してきた。今でも普及はしていないが、欧米の住まいのように寝室の隣にバスとトイレを設けることだって十分できるのだ。
ただ、なかなか日本ではバスとトイレが寝室に付設するものとしての意識は低いし、そうした間取りは少ないそもそも、バスとトイレを一緒の部屋に設けることにはかなりの抵抗がある。ワンルームマンションやホテルなどには多いが、家族向けのマンションや戸建住宅にはほとんど採用されてはいない。
おそらく、お風呂に独特の意味を見出しているからだ。

男女混浴に寛容だった大阪別荘地などの高台に建つセカンドハウスでは、時々全面ガラス張りのお風呂を見ることがある。
自慢の人のためのつくりではなく、お風呂に入りながらパノラマのように広がる景色を楽しむための工夫である。また、都心に建つマンションのお風呂でも、隣に坪庭が設けられ、お風呂から緑を観賞できるという心遣いが感じられるものがあるこうした工夫が施されたお風呂を見ていると、お風呂は単に体の汚れや臭いを取り除くためのものではなく、一種のリラクゼーション施設なのでは、と改めて感じてしまう。

家賃の一部に充てることも出来

そもそもわが国のお風呂の歴史を振り返れば、現在のお湯に入る形式(湯浴)とともにサウナ風呂のような蒸気にあたるもの蒸気浴の二つの系譜があった。蒸気風呂の存在はほとんど忘れ去られているが、大徳寺や妙心寺などの禅寺の浴室は蒸気風呂であった。
大場修によれば、風呂という言葉はもともと蒸気浴のことで、浴槽のお湯に入る形式のものは湯屋とか湯殿と称していたという『風呂のはなし』鹿島出版会、一九九五年。その意味では、現在のわれわれの言葉遣いは間違っていることになる。このように混同したのは、江戸時代から明治にかけて存在していた銭湯が、柘榴風呂形式をとっていたからであろう。この柘榴風呂形式とは、浴槽の出入り口が低くて屈んで入るようになっているもので、浴室は湯浴と蒸気浴の両方を兼ねたものであり低い出入り口は蒸気を外に逃がさないための工夫であった。こうした湯浴と蒸気浴が混在する過程で名称としては風呂が残ったようなのだ。
ざくろ名称の問題はさておいて、ちょっと注目したいのが銭湯のもうひとつの顔のことである。江戸時代後期には、江戸の人々は毎日湯に入るのが習慣で、また、内風呂は武家住宅だけで、商家には内風呂を備えたものは少なく、大半の人々が銭湯に通ったという。その銭湯は、当然ながらお湯に浸かってサッパリするという場とともに湯上がりに男風呂の二階には座敷があって、飲んだり食べたり、碁や将棋を指したりという娯楽の場でもあった図58

また、銭湯で興味深いのは、江戸は古くから男女別々に入っていたが、大阪では男女混浴で、寛政の改革一七八七九三年で男女別ができたが完全な分離ではなかったという。男女の混浴には、大阪のほうが寛容であったようで、そうした伝統は今でも性風俗の独特のアイデアに生きているようにも思える。
話が横道に逸れてしまったが、ここでいいたいのはお風呂が、単に体を洗うためだけの場ではなく遊びの要素を兼ね備えていたということ。こうした意識は、古代ローマ時代の大浴場文化に似ているかもしれない。ローマ時代の大浴場は体育館や図書館などを併設した一大娯楽センターであったからである西欧ではお風呂の娯楽性という文化がローマで途絶えたが、日本は、明治以降も娯楽性を兼ね備えたお風呂文化は続いてきたように思う。そうした意識が、お風呂は寝室に併設するものという西欧的な感党を拒否してきたし、お風呂をできるだけ楽しもうとする行為のみなもとになっているように思える。

お風呂に入るのは命がけだった既に触れたように、浴室お風呂はトイレと同様に住まいの隅に配されるのが一般的であった。その理由は、お湯を沸かすために火を扱わざるを得なかったためである。
家づくりの基本情報自分がどん


住宅ローンも含めた毎月の支出を引いた時

家賃の一部に充てることも出来それでも、明治以降の住まいの間取りを見ていくと、浴室のお湯を沸かす時間帯が調理の時間と重なるために、台所仕事の合間に浴室の火を扱えるようにと浴室の位置が次第に台所へと接近し始め、ついには隣接するように変化していくことになる。
私はこの現象を台所と浴室のハネムーン現象と称しているが、こうした熱い関係が再び崩れるのは戦後になって湯を沸かすための設備が充実し、人がその場にいなくとも沸かせるようになってからのことである。
さて、江戸から明治期にかけての内風呂といえば、想起するのが通称五右衛門風呂と呼ばれる長州風呂これは、大きな鉄釜に水を入れてそれを下から沸かす形式のもので、まさに、中にいる人間をゆでるものだ。内風呂としては、一九二0年代までもっとも普及していたもので、たとえば一九二0大正九年刊行の『日本住宅百図』遠藤於菟著には長州風呂を「一般家庭--適当11シテ衛生的、経済的」として詳細図を載せている。ちなみに、この間取り集には10坪から五四坪までの木造住宅が掲載されており、浴室は110坪以上のものにほぼ設けられていることがわかる図59

再び、長州風呂に目を向ければ、体を沈める大きな釜と上がり湯の小さな釜の二つがセットになっているのが一般的である。釜は直接火で焼かれているため、釜に触ると熱くて火傷しそうでかなわない。
いわば、お風呂に入るのも命がけだったのだ。そのため、改良風呂として、木製の風呂の中に鉄製の竪釜を取り付けた鉄砲風呂と呼ばれるものが普及した。
やけどしかし、これも鉄釜が風呂の中にあるため、ちょっと危険。