工事や取り付けるまでの準備工事を行う工務店

工事請負契約というのがあ

その庭も樹木の種類や石の種類やその組み方にこだわりが凝縮されていたのである
そうした室内から視界を通して一体化された内外の繋がりこそ、伝統的な座敷の魅力のひとつであった。そして、こうした意識があったがゆえに、客間は庭との関係を意識しつつ、住まいの中でもっとも質の高い部屋としてつくられ続けてきたのであった。そうした客間の存在意義を考えれば、客間という接客の場こそ、もてなすという、今日忘れ去られようとしている行為の場であり、もてなしを通して自己を主張する場であったように思う。
そのため、接客本位批判が展開されたものの、実際は、客間の完全否定ではなく、客間と居間を同様に重視するという緩やかな動きであった。このような雰囲気は当時の新しい主張の先頭に立っていた雑誌『住宅』の一九二0(大正九)年11月号の巻頭文からもうかがえる。
日本在来の住宅が接客本位であることは本誌でしばしば説いた。これが家族本位に改善される可きものであると云ふことも説いた。建築のみが放つデザインの強度に魅了される併し家族本位に改めると云っても接客の意義を根本から覆して客間を極端に虐待してよいと云ふのではない。ただ今迄のやうな居間偏軽の弊を喬めなければならぬと云ふのである客間の性質を考察すると凡そ親睦的、事務的、交際的とこの三様に分れるやうである。
親睦的なのは田園住宅に必要なもので、事務的と交際的なのは主として都市住宅に必要である(「心地よき客間の設備」『住宅』一九二0年11月号)家族本位といいながらも、客間の極端な虐待を戒めていることがわかるし、また、接客の機能をその内容から三つに分類し、都市型住宅では宿泊といった親睦的な機能よりは、短時間の打ち合わせや交誼的つきあいの場としての機能が求められることが記されている。

社会との接点の場所また、加治悦子は「文化生活に必要なる客間の装飾」『住宅』一九二0年11月号と題して、客間·応接室を家庭と社会との接点の場として必要不可欠な重要な場所であると述べている。一方、同じ接客の場としての客間と応接室について、それぞれ比較しながらそのあり方についても詳述している。

  • 耐震性能を高めることが行われてい
  • テレビや映画知り合いの家
  • 家族との時間調整も必要●自宅

リフォームするバリアフリー化する場合

これによれば、応接室は短時間の簡単な応対の場、客間はじっくりと客と接する場であり、位置的にも応接室は玄関近く、客間は静かなところで二階建ての場合は11階がよいと述べているわが国では一九一0年代以降11階建てが一般化してくるといわれている。それ以前は、平屋が一般的で、二階があっても屋根裏部屋のような部屋で、物置や使用人の部屋として使うものが多かった。それ·明治期になると高いところから遠くを眺め、あるいは、庭を見下ろすといったダイナミックな眺望を求めて二階を設けることが流行り、そうした流れが定着して二階に客間を設けることが普及し始めていた(図39)。

ちなみに、欧米の住宅では、1階に接客の場や居間などの家族共用の部屋を、二階には個々人の個室を設けるというのが基本的な間取りの構成であったが、日本では11階に客間を配置する住まいが登場していたのであるヾこうした二階に客間を設けるという形式は、1階の南庭に面するかつての位置を家族生活のための居間に譲ったことにより、新たな客間にふさわしい場所として眺望用の二階を確保したことから生まれたとも推測できる。
マンションを建てた方
いわば、居間と客間を同価値のものとして共存させた間取りともいえるのだ。見方によっては、こうした配置をよしとする考えも接客本位の考え方といえるかもしれないが、戦前期の客間に関する捉え方は、このようなものだったのだ。そして、客間そのものの存在をはっきりと否定するようになるには戦後を待たねばならなかったのである
行幸徊殿もうひとつの接客の場である洋風の応接室は、いつ頃生まれたのか。
基本的には椅子座の部屋であり明らかに欧米の生活様式の影響から取り入れた部屋であることは察しがつくであろう。この応接室の誕生の様子を見るには、明治初期の上流層の住まいの動向までさかのぼらなければならない。
わが国の住まいにおいて、日本人の住まいとして西洋館が建設されたのは明治初期。最も早いものとして知られるのが、一八七三(明治六)年の毛利元徳邸であり、一八七四年の黒田長溥邸である。共に伝統的な書院造の和館の横に西洋館が建てられた。こうした形式は、和館と洋館が並存していることから和洋館並列型住宅と称されている。黒田邸は福岡藩第11代藩主の住まいで、木造二階建ての本館の脇に建つ洋館は土蔵風に見えるが、窓は鎧戸の付いた上げ下げ窓で、室内は中央に椅子とテーブル、壁には暖炉、窓にはカーテンがあり、洋風の建物であることが確認できる(図40)。
くろだながひろ
では、なぜ黒田は伝統的な住まいがあるにもかかわらず、その脇にわざわざ洋館を建てたのか、やあるいは新しい時代を先取りするためであったのか、と疑問が浮かぶ。
趣味実は、この洋館が竣工した翌年の一八七五(明治八)年に、明治天皇が黒田邸に行幸しているのだ。
先に紹介した毛利邸にも一八七三(明治六)年に天皇の行幸があった。住まいで一緒に摂る生活を実験的に試みている

工事が始まってからでも変更は可能

行幸とは、古くから伝わる伝統的な行為で、天皇が側近の人々の住まいを訪ねることを意味するもので、それはお迎えする側にとっては天皇の信頼を得ていることの証であり、簡単には得ることのできないひとつの高貴なステータスでもあった。その際、招く側では最大級のもてなしの行為として、まっさらな新築の建物を用意し使っていただくことがしばしば行なわれたのである。そのため、そうした新たに用意された建物は行幸御殿と称されていた。
一八七二(明治五)年以降、明治天皇は、当時の欧化政策の象徴のように洋服を纏い、外出し始めたのである。それゆえ、招く側にとって、天皇をお招きするにあたって、もっともふさわしい建物こそ洋服に対応する洋館だった。こうした明治天皇の行幸は頻繁に行なわれ、それに伴い、西洋館を新設すやしきる邸が増えた。
そして、一八九0年代になると、行幸の有無にかかわらず、上流層の邸では和館の脇に酉洋館を設ける和洋館並列型住宅が定着し、西洋館は接客の場として用いられたのである(図41︶。

一九00年代になると、洋風化の浸透に伴い、上流層の住宅の動向を受け、中流層においても住宅を時代に対応すべく改良の必要性が主張されることになる。住まいで一緒に摂る生活を実験的に試みている

住まいで一緒に摂る生活を実験的に試みている

その代表的な主張が建築家·北田九一の和洋折衷住家の提案であった。その主張こそ、上流層の和洋館並列型住宅を縮小コピーしたもので私はミニ和洋館並列型住宅と称している-玄関脇に一、二室の洋室を応接室として設けるというものであった。
この北田の主張は、当時の中流層の心を捉えた。北田の方法を採用すれば、それまで長年住み続けてきた伝統的な住まいの玄関脇に一部屋の洋風応接室を付加するだけで、新しい時代の住まいにつくり替えることができたからである。こうした単純さもあって、以後、玄関脇に洋風の応接室を設ける住まいが増えることになる。

他人に見せるための男の場、女の場改めて応接室や書斎を振り返ると、使用するのは主人を中心とした男たち。
これらの場は、男の空間といえるのだ。
住まいを男の空間と女の空間に分けてみれば、それまで見えなかった様子がうかがい知れる。
かつては、台所やその周辺の空間は、まさしく女の空間であり、対外的な交渉を行なう客間や書斎は男の空間であった。


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