建築のみが放つデザインの強度に魅了される

日曜大工ができる

明治中期、東京帝大出身の建築家は国家建設を担うエリートで、中流層の住まいなどに関心を持っ建築家は少なかった。その中で横河は、建築を社会的な価値からのみ捉えようとした人物ともいわれるように、社会の要請する建築の必要性をいち早く察知していたようにも思う。このことは彼の卒業設計のテーマが一九一0年代以降注目される都市型の集合住宅であったことからも推測できる。こうした気質が自然に時代遅れの在来住宅の批判をさせたのかもしれないし、あるいは、一八九三(明治二六)年に女子教育の先駆者であった棚橋絢子1839-1939の二女と結婚したことが、自らの住まいへの関心の扉を開かせたのかもしれない。いずれにせよ、横河の考え、すなわち、居間の位置と客間の位置を取り替えるべきであるという主張を中心とした在来住宅批判は一九00年前後から盛んに行なわれるようになるなお、土屋は『家屋改良談』において、起居様式についても触れ、畳を廃して椅子座にするほうが便利であることを説いている。こうした床座から椅子座へという起居形式の批判は、一九一0年代になると一層強く主張されることになる。そして、こうした居間中心と椅子座がセットとなり、洋風の椅子座の居間は家族本位のシンボルとして声高に主張されることになるのである。そして、一九一0年代になると、横河の主張が広く理解されるようになる。
賃貸契約も同時に結ぶ必要があ

シックハウス症候群になりやすい

間取り検討や様々

すなわち、在来住宅批判として客間重視の否定という考え方が一層強まり、これまでの客間重視の住宅を接客本位の住まい、家族の生活を重視した住まいを家族本位の住まいと称し、家族本位の住まいの証としての居間を中心とすることが声高に主張されはじめることになるからである。

『バンガロー式明快な中流住宅』居間中心への関心の高まりや動きは、欧米住宅の情報の浸透に伴い、わが国の伝統的住宅を当たり前のものとして受け入れるのではなく、欧米住宅との比較を通して相対化できるようになったことを意味している。平たく言えば、都市中間層の人々が、欧米様式の住宅を身近なものとして、自らの住まいとしてチョイスできる対象の一つとして見始めたのであるそのため、一九一六(大正五)年に創刊された『住宅』誌上では、様々な欧米様式の住宅が盛んに紹介されることになる。そして、そうした欧米様式の住宅を見て興味深いのは、圧倒的にアメリカ様式の住宅が多いことである。しかも、一九一0年代後半から一九二0年代には大半がアメリカのバンガロ様式の住宅なのだ。その理由を明快に述べているのが大野111行である。『バンガロー式明快な中流住宅』一九二二年、洪洋社によれば、アメリカのバンガローやコッテージ式が気候風土的にもわが国に適することがはっきりと主張されているからである。
では、こうしたバンガローの間取りの特徴はどのようなものであったのか。


間取りをもとに振り返っておきたい
間取りをもとに振り返っておきたい

家さんを見てきた私からすれば

建築の見学どころではないこれについては、アメリカのイリノイ大学出身でアメリカ通として知られていた東京高等工業学校現東京工大教授の滋賀重列1866-1936が「バンガローは居間が中心で、客室の如きパアラー、ドロイングルームなど殆どないと云っても差支へない位で、居間と食堂と広間と寝室と台所と配膳室、浴室が主で、玄関の間又は下碑室などに至っては主要条件となっていない」バンガローの特長『住宅』一九一九年二月号と述べているこれを見ると、バンガローの間取りの特徴として居間中心わが国の新しい住宅の追求の中で、海外の住宅に目が向けられ、としての居間中心、さらには、気候風土などの類似性などから、のバンガロー式住宅が注目されていたのであるという解釈があったことがよくわかる。
家族のための住まいづくり、その象徴具体的なモデルハウスとしてアメリカ
居間派茶の間派ところで、団欒といえば居間だけではなく、茶の間をイメージする方もいるかもしれない、ちゃぶ台が置かれ、家族が揃って食事を行ない、あるいは、お茶を飲みながらにこやかに駄弁っている光景がすぐ浮かぶ。この茶の間は、語源的にも茶に関連する場であったことが想起されるが、どうして食事を行なう部屋の名称になったのかはよくわからない。
ダンボールマンションと同じしかし、近代以降の住まいでは、当然ながら伝統的な畳敷きの部屋としての茶の間が食事だけではなく食事後の団欒の場も兼ねる場として存在していたのであるだベ一九二0年代後半、すなわち、大正期から昭和期に移行しようとした頃、家族団欒の主張も詳しく見ていくと、団欒の部屋として洋風の部屋を主張する<居間派……洋室派>と、伝統的な和風の部屋を主張する<茶の間派和室派>が存在していたことがわかる。
<居間派>と<茶の間派>の違いは、居間は起居様式として椅子座、茶の間は在来の床座の場であるということとともに、居間は団欒専用の場であるのに対し、茶の間は文字通り食事兼団欒の場であったことである。それは、茶の間派のほうがより現実的な提案であり、住まいそのものを洋風につくり替えなくとも、部屋の位置だけを取り替えるだけで実現できる手軽な方法であったともいえる。

家族の場である居間を中心

そのような観点で当時の間取りを見てみると、部屋の構成はかつての座敷·次の間という二間続きの部屋を南側に配していても、次の間部分が客間の控えの間ではなく、家族の使用する茶の間として使用されているものが散見できる(図22)。それに伴い、次の間の位置の茶の間は、台所と密接に繫がりはじめ、文字通り、家族の日常生活の場に変化していくことになる。一九三0年代になると、洋風熱も少し収まり、伝統的な住まいのよさも再評価される。そうした動きの中で、茶の間派は確実に定着していたのである。それは、洋風生活の浸透という意味では後退現象であったが、家族本位の生活は確実に浸透していたことを意味する。

最小限の住まいの中のアイデア戦後の住まいづくりにおいても、居間·茶の間はその部屋としての姿は洋室と和室というように異なっていても、家族団欒のための場としてその地位を確実なものにしていた。
特に、戦後の民主化の動きは、住まいにおける家族団欒の場の必要性を促した。そして、戦後わが国に持ち込まれたさまざまなアメリカ文化がその手本として注目された。
工事や取り付けるまでの準備工事を行う工務店


家を建てることが仕事
家を建てることが仕事

一九三四年には建築

終戦直後に建設された占領軍の住まいであるデペンデント·ハウス(DH)は、単純で明快な居間を中心とした間取りで、敗戦で喪失感漂う日本人から見ればきわめて魅力的な新しい住まいに見えた図23、図24。また、大量に導入されたブロンディの漫画やホームドラマなどの映像を通して、夫婦中心の家庭生活や居間を中心としたアメリカ住宅があこがれの象徴としてもてはやされた。

そうした中で新たな動きが起こった。台所兼食堂(DK)ダイニング·キッチンの出現である。厳密には一九五一(昭和二六)年の公営住宅の間取りとして考案されたもので、四0平米に満たない最小限の住まいにおいて、二つの寝室と食事の場を確保するためにとられた方法が台所と食堂を一体化させるというアイデアであった図25、図26。しかも、食事はテーブルを囲んだ椅子座で行なわれたのである。それまでの居間や茶の間とは異なる新たな第三の家族団欒の部屋の出現といえる。

このDKを取り入れた間取りは、一九五五(昭和三0)年に創設された住宅公団の手掛けた集合住宅に採用され、瞬く間に戦後の住まいの代表的間取りとして定着していくことになる。また、このDKの考えはそれまでの団欒専用の場としての居間に影響を与え、居間兼食堂(LD)という新しい家族団欒の部屋も生み出した。

住まいのひとつの姿であることだけは確かだ